ヒトラー 独裁者の魅力++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ヒトラー 独裁者の魅力
”偉大なる総統閣下”
アドルフ・ヒトラー
Adolf Hitler
■合法的権力奪取 ”栄光への道”
ミュンヘン郊外のランツベルク監獄では囚人とは思えないような好待遇を受けて過ごす。ここでは「わが闘争(Mein Kampf)」の第1部を口述筆記している。1924年12月20日には釈放となった。

1925年2月27日、ミュンヘン蜂起を行った同じビアホール(ビアホールは政党の集会場所としては一般的なものだった。)で、党の再建集会を実施。このころ、多くの州でヒトラーの演説は禁止されていたが、チューリンゲン州では許されていた。このため1926年7月3日同州ヴァイマールで第二回党大会を開催している。翌年には党員が7万2千名以上になり、演説が解禁になった8月の第3回党大会は、ナチ党の聖地ニュルンベルクで開催され(以後1938年の第10回党大会まで同市で開催)、警察発表で1万5千人から2万人の党員が集まった。

しかし翌26年の党大会では、4月に受けいれたヤング案を「ドイツ国民奴隷計画」だとして反対。突撃隊2万名以上が大デモンストレーションを決行した。当初は秩序だった行動で好評を得ていたが、そもそもが失業労働者を中心としたグループである(大恐慌以降その傾向は一層強まる)。SPDやKPDの左翼の防衛組織や施設を攻撃したり、無秩序な暴力行為がエスカレートし、ニュルンベルクは無法地帯となった。

29年の大不況の後、失業者は急増、30年9月14日の国会選挙ではNSDAPは107議席に躍進した。30年代前半は各政党の準軍事組織どうしの抗争で、街頭はさながら内戦状態に陥っていた。左右のそうした組織は、自己の隊列を組んで互いに行進の場所を奪い合っていた。

Gobbelsは言う。「街頭はとにかく現代の政治の特徴だ。街頭を支配しうるものは、大衆を征服できる。従って、大衆を制するものが国家を征服するのだ。」

32年2月22日にヒトラーは大統領選に立候補する。NSDAPは大規模な宣伝戦を実施し、バイエルンだけで800万のパンフレット、1200万の新聞号外、100万の絵葉書を配布する。しかし、4月13日結局は保守派のヒンデンブルク大統領が当選してしまう。しかし、7月31日の国会総選挙では18.2%から37.3%と倍増以上の得票で、230議席を獲得する。

しかし、同年11月7日の総選挙では200議席以下に後退。これは、オーバーシュレージェンの小村ポテンパでの攻撃隊隊員による共産党シンパ殴打事件で、ゲーリングやヒトラーがSA隊員への同情的発言を行ったため国民の反感を買ったと見られる。

翌33年はヒトラーがいよいよ合法的に政権につき絶対的権力を握る年である。1月末、ヒトラーはまず首相に任命される。ただちに総選挙にうってでた。2月27日には国会議事堂炎上事件がおきている。犯行はどうやらオランダ人共産主義者の単独によるものだったが、この機会を利用して共産党員は一斉に検挙された。また、「国民と国家を防衛するための大統領緊急命令」が出され(このころ国会の立法よりも大統領緊急命令の方が圧倒的に多くなっていた)、「強制的ナチ化(Gleichshaltung)」が進行する。突撃隊によるプロレタリア闘争諸団体への弾圧・解体が進行した。

突撃体はこの年、ヒトラーが総選挙で国家人民党との連立で過半数を占めた後400万人以上に膨れ上がる一方、いまだベルサイユ条約で10万人の兵員に制限されていた軍は脅威を感じるようになる。ヒトラーももはやこの粗野で国民の不興を買っている団体を放置できないとともに、軍との関係も考慮せねばならなくなった。

34年6月30日、「長いナイフの夜」と呼ばれる突撃隊幹部の粛清が行われる。SS(親衛隊)を率いたヒトラーは自ら指揮して、3日にわたりレームをはじめ85名が虐殺された。この事件で、ヒトラーは逆に国民の支持を獲得している。それはまさに実行力を強烈に印象付けた、つまりやれる男という評価を得たわけである。

8月1日ヒンデンブルクの死の直前「ドイツ国家元首法」が制定され、8月2日の死後「総統兼首相」として完全に絶対権力を握る。8月19日には国民投票で89.93%の支持を得、国防軍はヒトラーへの忠誠を誓った。こうして迎えた9月の党大会はまさに「意志の勝利」となるわけである。
《あなたの心の鉤十字(ハーケンクロイツ)をもっと正直に認め、堕落から解放されなさい》
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